独立行政法人 国立病院機構 村山医療センター

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トピック

パラリンピックを目指す荒武優仁さんその5
頚髄損傷と戦う~iPS細胞移植の可能性を信じて~


院長として多忙を極める日々。そんなある日、院長谷戸から話を聞く機会を得た。谷戸の過去の話、とりわけ私的な話を聞くのは初めてだ。数多くの手術を手がけただけではない、学会での発表や研究論文も多く、新しい術式にも取り組んできた、頚髄、脊髄の第一人者だ。

障害、身をもって知る

頚髄損傷、それは、谷戸が整形外科医を志すきっかけだ。整形外科医としての原点は、大学一年、医学生時代にさかのぼる。受験を突破し、医師となる希望に満ちて入学した校舎に母親が車椅子を押して大学に通う同級生がいた。彼は頚髄損傷で障害を負っていた。彼は手も指も動かない、できることは、かろうじて肩をすくめられる程度だ。今思えば、彼との出会いがはじまりだった。

大学の仲間で食事をすることがあった。谷戸は障害を負った彼の食事の手伝いをした。谷戸にとって食事の介助は、初めての経験だ。自分の食事をしながら、彼に食事をさせなければいけない。介助、他人にご飯をたべさせてあげるという行為は、なかなかの重労働、簡単ではない。不慣れな手つきでなんとか、やっとの思いで食事を彼の口に食事を運ぶ。

「一生食事の介助をしなければならない」、クラスメートの母親から漏れたその言葉を聞いたときに戦慄が走った。

一生、クラスメートはご飯を誰かに食べさせてもらわなくてはいけない
一生、お母さんは彼の介助をしなくてはならない
一生、クラスメートの麻痺はとれない
これが一生続くのだ。

医学の可能性を信じて医大生になった。障害を一生負い続けなければならないクラスメートの姿は、医学の可能性を信じる谷戸にとって敗北感のようなものさえ感じさせたかもしれない。今になって思い返せば、障害を負った彼との出会いが頚髄損傷と戦う旅の始まりだった。

頚髄損傷と戦う

整形外科医になって2年目、1990年のことだ。頚髄損傷で四肢麻痺を負った患者さんにリハビリをさせたい。しかし北関東の小さな病院だったので十分なリハビリ施設がない。良いリハビリ施設はないものだろうか。谷戸は患者さんを救急車で連れて、当時から頚髄損傷で有名な村山医療センターに行った。村山医療センターのリハビリ施設を見学させてもらった。頚髄損傷に特化したリハビリ施設、車椅子バスケットの体育館、整形外科医2年目の谷戸にとってははじめて見る素晴らしい施設だった。谷戸は、村山医療センター勤務を希望。その3年後、村山医療センターに赴任することができた。どうしてもここ(村山医療センター)で脊椎を勉強したい、1年間だけだったがその強い希望がかなえられたのだ。

忘れもしない、村山医療センター赴任後のある土曜日の夕方のことだ。
谷戸が村山医療センターを知るきっかけとなった患者さん(頚髄損傷で四肢麻痺となった患者さん)と村山医療センターで再会することになる。偶然の出会いに、谷戸は喜び、驚いた。患者さんは村山医療センターの体育館に車椅子バスケットをやりにきていたのだ。

患者さんは当時の心の様を谷戸に語ってくれた。
「何で谷戸先生は私を助けたのだろう?」
当時10代の私は、そう思っていました。
「殺してくれれば良かったのに…」
そう打ち明けられた。
「今ではそうは思ってないけどね」
笑顔に救われた気がした。

車椅子でもデートはできる

東京パラリンピックが開催された。谷戸の元患者さん(マセソン美季さん)が東京パラリンピックの開会式で日本国旗を運ぶベアラーの1人として車椅子で現れた。彼女は村山医療センターで治療を受けた後、98年長野パラリンピックのアイススレッジ・スピードレースで金メダル3個、銀メダル1個を獲得した。その後カナダのアイススレッジホッケー選手と結婚、子宝にも恵まれた。2016年から日本財団パラリンピックサポートセンター勤務。国際パラリンピック委員会(IPC)教育委員を務めている。

1993年10月だ。当時20歳のマセソン美季(当時、松江美季)さんは通学途中、柔道の早朝練習に出かけるときに交通事故にあい、K大学病院に緊急搬送され、脊髄損傷ということで村山医療センターに転送された。その時の主治医が谷戸だった(リンク)。

ある日のことだ。マセソン美季さんと廊下で会ったとき、手をつないでくれと頼まれた。何でだろう?少し不思議な気もしたが、車椅子のマセソン美季さんの手をつないで、リハビリ施設まで連れて行った。

彼女はとても喜んでいる、そして、こう呟いた。
「車椅子でもデートできるね!」

村山医療センターの体育館で、障害者がバスケットをやっている。その姿がかっこいい、それが彼女のパラスポーツを始めるキッカケだ。

頚髄損傷で四肢麻痺となった患者さんやマセソン美季さんだけではない、多くの患者さんの手術後の姿は、谷戸に影響を与えた。とりわけ、患者さんが生きる希望を見いだすことに、強い感銘を受けた。出会った患者さんのその後の人生は、谷戸の整形外科医としての骨格となっていった。

やれること、やるべきことはある

医学の可能性を信じてこの道を選んだ。急性期で骨が折れていれば骨をつなぎあわせることはできる。だが、麻痺をとることはできない、失われた身体の機能を元に戻す術がないのだ。いままでは、麻痺とのつきあいかたを教えること「しか」できていない。残された機能を使ってどこまでできるようになるのか、それを手伝うことしかできない。麻痺は患者さんと谷戸の行く手に壁となって立ち塞がる。ヒポクラテスの時代から頚髄損傷は治すことができないと認識されてきた事実。

谷戸は言う。
そんなことはない、まだまだ、やれることがある。

谷戸の想いは、村山医療センターで再生医療を切り開く導火線になろうとしている。

再生医療にかける期待

村山医療センターは関東で唯一、頚髄損傷を専門に診る病棟を持つ病院だ。頚髄損傷の急性期は治療を、慢性期はリハビリをやり、患者さんの社会復帰をめざしてきた。再生医療は頚髄損傷と戦う有力な武器になる可能性を秘めている。しかし、再生医療は、どこまで回復が期待できるのか、まだ誰にもわからない。医学にとって未経験の分野、回復がどの程度見込めるのかは、専門家にもわからないのだ。

しかし、動かなかった指が少しでも動くようになる、患者さんは、今までできなかったことができるようになる。今までは麻痺を治すことはできなかった、あきらめるしかなかった。再生医療は、わずかでも患者さんの身体の機能を取り戻すことができる、これは患者さんにとっても医療従事者にとってもスゴいことだ。



谷戸は再生医療に最も強い熱を持つ者のひとりだ。だが、熱の渦中にあっても、冷静にやるべきことを見据えている。細胞移植後、どうなるのか、冷静に評価していかなければならないのだ。何ができるようになっていくのか、何ができないままなのか。どのように変化していくのか。正確に判断しなければならない。正しい評価は今後、国内に16万人いるという慢性期の頚髄損傷の患者さんをどのように治療すべきなのか、その道標(みちしるべ)となるからだ。急性期だけでも国内で1年間に5,000人ほどの患者さんが発生する。それだけで、いくつ病院があってもたらない。病院がたらないだけではない、急性期の患者さんから、次は慢性期の患者さんに。海外も含め多くの患者さんがいる。どうやってどのような患者さんに適用する(治療を受けてもらう)のか、気が遠くなるような課題が山積みだ。

先ずしっかりと治療の評価をする、急性期の患者さんにやるメリット、意味を確かる。どのような患者さんにとって良い適用なのか、どこからどこまでが良い適用なのか。それを調べ、かつ、再生医療を行える体制を作らなくてはならない。

頚髄損傷と戦う旅の行先

iPS細胞移植は、今までできなかったことを実現できる可能性がある。再生医療は、失われた身体の機能を少しでも回復させることが期待されている。これは、患者さんにとって大きな希望だ。

命を救うことができても麻痺を治すことができない、永きにわたり、この難題に立ち向かってきた。院長として病院経営を預かる身となった今も、頚髄損傷との戦いは終わらない。経営者としての視点では、頚髄損傷の治療はつらい部門である。頚髄損傷を専門にする骨・運動器リハビリ病棟は年間数千万円の赤字をだしている。他部門の利益でこれを補填して経営をなりたたせている。世の中にはその苦労は理解されていない。だが、谷戸には頚髄損傷との戦いの旅の行き先が見えている。今後、村山医療センターを再生医療の拠点とし患者さんに貢献する、旅の行先はそこにある。

1月14日(金)、脊髄損傷に対するヒトiPS細胞由来神経幹細胞移植の臨床治験が世界で初めて慶應義塾大学病院で実施されたことが発表されました。iPS細胞由来神経幹細胞移植の臨床治験への村山医療センターの取り組みはこちらをご覧ください。

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